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戦後70年目の シベリア抑留中死亡者慰霊巡拝
素晴らしき出会いと 歓談の八日間の旅
戦後70年の節目に、旧ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝に参加でき、初めてロシアの大地を踏みしめて、遺族の方々と悲しの中にも、楽しい会話を交わしながら、8日間を過ごした感動的な旅でした。一生忘れ難く、胸中に記憶されるでしょう。 まず初めに、旧ソ連のシベリア抑留とは、どのような大事件であったのかを検証したいと思います。 日本はアメリカ空軍の、B29によって、昭和20年(1945年)8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下され、両都市は原爆の爆発と、その後の火災で壊滅状態になり、多くの死傷者を出した。
昭和20年8月9未明、スターリン体制化の旧ソ連軍は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、旧満州国に侵攻して関東軍と戦闘になり、旧満州国は戦場と化した。
8月15日 昭和天皇の【終戦詔書】により、終戦となり、日本国はポツダム宣言を受諾して無条件降伏したにもかかわらず、約70万人の日本の将兵が捕らえられ、シベリアの各地(1200か所)に強制連行され、粗悪な食料を与えられ、冬は零下30度になる奥地へ移送され、森林伐採や土木建設、鉄道建設工事、探鉱作業、生産事業等の重労働に強制的に従事させられました。飢餓と伝染病が蔓延している中で、重労働に駆り立てられたのです。
この度の慰霊巡拝に参加された遺族に父や叔父の方々の多くは、コレラ、腸チフス、赤痢などの伝染病や栄養失調で死亡しました。私の父久二は森林の伐採中に大木の下敷きになり、頭蓋骨骨折で死亡しました。
今回の慰霊巡拝団は、遺族の方は、10名、政府の職員2名、通訳1名と、ロシア人のガイド1名、また50年以上、日本との交流があり、現在ロシアに地で日本人抑留者の調査と遺骨収集に携わっている、女性のポターポアさんと、バスの運転手、計16人で行動を共にしました。
写真見ながら、回想した中で印象深く思い起こされることは、クリドール周辺の墓地に向かうため四輪、六輪駆動の軍用トラックに乗車して、険しい凸凹道を走行する間は、支え棒にしっかり掴まっても、全身が上下左右に激しく揺さぶられるという、通常では体験できない旅でした。
私は、そうした中でも左手で体を支え、右手にカメラを持って要所を撮影しました。
この慰霊地は、白木和子さんのお父上が埋葬された墓で、心からご冥福を祈るとともに無念の思いを晴らして、ご家族の元へ帰られますように、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えました。
次に、私の父が戦死した、イズベストコーバヤ集合村落の役所に表敬訪問した時のことです。感動したことは、女性町長のガリーナ・カズローワさんが、私たち一行を心待ちにして迎えてくれたことです。テーブルには、美味しいお菓子やハムとサラミソーセージとパンとジュースまで用意されていて、温かく応対していただきました。カズローワ町長は、「ロシアのこのような奥地に、外国人が訪れるのは、あまりないので、嬉しいのです。」と歓迎し、「日本の方々が、慰霊巡拝のために立ち寄ってくださり、本当に嬉しいのです」とも仰っていました。
話が弾んだ後半には、「皆様に差し上げたいものがあります」と言って、星川団長に(大海原の地平線から大きな太陽が煌々と輝き昇り、威厳に満ちた光景と左手前に大きな帆掛け船が、荒波と闘いながら、航海している風景の絵)を手渡しました。
カズローワ町長は「これは、日本のイメージです」と言われたので、私は、「この絵は太陽が、東から昇り地球を照らす【日(ひ)の本(もと)】と言う意味ですね」と言うと「その通りです」と私の顔をじっと見て、微笑んでいました。
そして、記念撮影を終え、外に出たカズローワ町長は、自ら車を運転してイズベストコーバヤの慰霊地へ、私たちを先導してくれました。
この地での慰霊は最後の巡拝でしたので、私は、最善を尽くしました。祭壇を皆で飾って、その中に私が用意してきた、鈴を置きました。皆さまはその鈴を叩きながら、思い思いの祈りを捧げ、追悼の式典を行い、最後に、私が遺族の方々からの要望を受け、代表挨拶をさせて頂きました。
皆さまから大変喜んでいただき、感謝しています。そして、私が心に決めていたことを実行しました。
私が胸のポケットに抱いていた、お守り御本尊を、ご安置し、皆様に深深くお辞儀をして、「只今から、戦没者の追善供養を行うために、法華経の方便品と寿量品自我偈を読んで、題目を唱えます」と言って用意してきた鈴を力を込めてたたき、法華経の方便品と寿量品の自我偈を読誦して、「南無妙法蓮華経」と、5分ほど唱え、戦没者のお名前を念じて、心から追善供養をいたしました。
そして、このロシアのシベリアの奥地へ強制移送され、食料も乏しい中で重労働を課せられ、帰国できず苦しみながら戦没された方々の無念の魂を永い眠りから呼び覚ましました。そして、日蓮大聖人が「一心一念、法界にあまねし」と仰せの如く、宇宙法界を自由自在に航海できる「妙法蓮華経の大船」に乗って、遺族の方々と共に家族の元へ帰られ、深い愛情に包まれて機運を醸成され、蘇生して再び人生を遊楽できますよう深く祈りました。
さらに、ご遺族の方々と、この場にご参集くださった方々に感謝し、ご健康とご多幸を心を込めて祈りました。最後に、「南無妙法蓮華経」と三回唱えて終了し、皆様に向かって「只今、全戦没者の追善供養を行いました」と宣言いたしました。
後方で、じっと見つめていたカズローワ町長は通訳を伴って私の方へ歩み寄ってきましたので、私も町長に近づき、「有難うございました」と頭を下げました。すると、カズローワ町長は、私をじっと見つめ、「貴方が、いかに立派な人物であるか、ハッキリわかりました。また、是非ロシアに来てください」と仰せになったので私は、「また、ロシアに来たいと思っています」と答え、握手を交わしました。
私はホテルの部屋に戻ると、御本尊を安置して勤行・唱題をしながら、6日間の感動の場面を回想して、遺族の方々と語り合い印象的であった事を考えていました。
皆さん、それぞれに思いがあり、戦争という悲惨な惨状のために、家族が筆舌に尽くせない苦労があり、その影響は、70年過ぎた現在にも、尾を引いている。でも、こうして遺族の方たちと会話していると、それぞれ、乗り越えて社会の中で嬉々として、過ごしておられる。慰霊のため悲しい中でも、楽しい出来事あり、美味しい料理の味わい、中には口に合わない料理もあったけど、思いで深い6日間でした。この感動を忘れないように、何かで残したいと考え、「慰霊巡拝文集」を作成しようと決め、次の日、宮田芳光さんに相談したところ賛成していただいたので、バスの中で一人一人に、考えを語りかけたところ全員から賛同していただき嬉しく思いました。
私が撮影した全員のスナップ写真と要所の風景の写真をCDに書き込んで、写っている人の写真をプリントしてアルバムに入れて送ったら、皆さん喜んでくださり、「文集の原稿書きに取り組みます」との返事をいただきました。皆様に差し出した手紙の中で、私は次のように書き添えました。「慰霊文集の件ですが、原稿書きは進んでいますでしょうか?私は頭の中で記したいことを練っているのですが、手を付けていません。あの時の感動の熱が冷めない内に、完成したいと思っています。極東の地、ロシアのハバロフスクに強制的に移送抑留された父や叔父が、この地で生きていた証を、永遠に伝えるために、記したいと思います。この事実を消し去ってはいけないと思うからです。」と。また、「文集の原稿書きは、お互い大変で、苦労されるでしょう。しかし、完成した時の充実感は計り知れないと、後になって分かると思います。皆さんの総意が結集できれば、きっと素晴らしい「慰霊巡拝文集」が完成できると期待しています」と記しました。
9月5日(土)「日本人死亡者慰霊碑」の前で行われた合同追悼式の終了後、インツーリスト・ホテルに戻り、夕食まで時間があったので、宮田さんとアムール川のセントラルパーク公園に散策に出ました。広大なアムール川の絶景を眺めるため、展望台に向かう途中、色彩鮮やかなドレスに身を包んだ美人女性6~7人と、精悍な顔立ちで優しそうな青年たちが、和やかな表情で、声を張り上げている集団に出会いました。よく見ると、新婚さんを囲んで祝杯を挙げているところでした。カメラを向けると、快くポーズをとって写真を撮らせてくれました。
精悍な男性にシャンパンを差し出されたので飲み乾し、「ありがとう。ご結婚おめでとう」と言って、祝ってあげたら喜んで、新婚さんも微笑んでポーズを取ってくれました。
微笑ましくも大らかな祝福でした。お二人のお幸せを祈りながら、その場を後にしました。ホテルに戻る道の途中で、三組の新婚さんに出会ったのも印象的でした。
夕食のグルジア料理は、私の口には合いませんでしたが、スターリンが好んで飲んでいたというワインを、石崎さんと私の実費オーダーで、皆さんに飲んでいただくと、こちらは格別に美味しく味わうことができました。ワインの良し悪しは判らない私でも、ブドウの香りといい、良質に熟成された深い甘みといい、大変美味しいワインでした。
この席で新婚さんの話をしたら、通訳の岩岡さん曰く「ロシアでは、結婚式は教会で行い、花輪で飾り立てた車両に友人たちが乗り、人々が大勢集まる名所旧跡、公園に向かいます。そして、行き交う人にお披露目し、祝ってもらいたいと声をかけ、祝杯を挙げるのです。その後、宴会場に向かいます。宴会では祝福のスピーチあり、歌あり、踊りありで楽しく盛り上げます。その時、お決まりの風習が行われます。それは、盃を高く掲げて、今日の、この酒は苦くて不味いと声を張り上げます。そこで新婚さんカップルは、お酒を美味しくするために、キスをしなければならない。美味しい料理も同じように、不味いと言って、何度もキスをさせられる」と話してくれました。
【新しい時代の主役は、言うもでもなく青年である。青年を信頼し、青年を尊敬し、青年の育成を社会全体の最優先の目的としていくべきである。青年の成長こそ不滅の希望の太陽である】これは、私が尊敬している指導者の言葉です。
また、この度の巡拝のガイド役のシショフ氏と懇談する機会がありました。
シショフ氏は、このように言いました。「ロシア人は、皆、日本人を好意に思っていて大好きであるが、日本人は、ロシア人をあまり好きではないようだ」と。そうかもしれないと思いつつ、私は、次のように話しました。「私は、今のロシア人は大好きです。私は、欧米人や中国人よりも、現在のロシア人を信頼しており、経済的交流は勿論、文化、教育、が交流を深めることができると、話しました。
人的交流が深まれば信頼感が密になり、政治的相克は、徐々に解消されるのではないでしょうかと話しました。 そして、次の質問をしてみました。「ロシアと中国は隣国同士であり、関係をどのように思っていますか」と。
シショフ氏は、答えました。「中国人は、あまり信用できない。自国の経済的利益を優先して、他国は不利益を被っても、構わないとう考えが強く、個人の人たちも同じようだ」と。さらに、このように続けました。「しかし、ロシアと中国は年々、経済活動が密接であり、年々拡大している」と。「私の娘は、今、中国の大学で勉強させている。ロシアの大学で勉強するよりも、将来性もあり、費用も安く済んでいるので、助かっている」とも話し、重ねて「多くのロシア人は、日本人との交流を望んでいる」と話していました。
さらに次の質問をしてみた。「ペレストロイカを成功させた、ゴルバチョフ元大統領を、どのように評価していますか?」と。シショフ氏は、一瞬、言葉に詰まって穏やかな表情を曇らせて、眼光鋭くなって怪訝な表情になり、曰く「ゴルバチョフは大半のロシア人は、とんでもないことをしてくれたと、怒っている。一般の人たちは、職場を失い、流通は滞り物価は高く、金があっても、物が無くて買えない、社会的不安定になり、掠奪、窃盗、殺人等の事件が頻繁に起こり、人々は苦しんだ。これらを、引き起こした張本人は、ゴルバチョフである」と言い放ちました。これで時間がなかったので、話を先に進めることができなかった。
私は、シショフ氏から、この話を聞いて、「ああ!そうでしたか」と聞き流すわけにはいかないので、ここで少し、ゴルバチョフ氏についての評価を述べたいと思います。東西冷戦を終結させた業績は世界的に高く評価されているのに、現在のロシア国民は国内事情から、逆に極評されている。国内の悪評に毒されたロシア国民は、真実を理解していないのだと思う。
ゆえに私は、ゴルバチョフの人生行路を辿ってみたいと思う。
ゴルバチョフ氏は、自身の生い立ちを、次のように語っています。
「私の世代の多くの人は、自由主義の何たるかを深く詳細に知っていません。ただ、スターリン時代に幼少の頃を過ごした私たちは、小事につけても大事につけても、『自由』というものを渇望し、崇拝したのです。
自分たちに無かったもの、すなわち『言論の自由』を志向し、人々が自分の運命を自分で決められるようになることを、夢に描いたのです。
私の人生の命題は、幼児期の原体験と、これまでの人生経験の中で、形成されました。私にとってスターリンの粛清は、単に人から聞いた話ではありません。1937年に、私の祖父が投獄されたのです。その時、村の誰もが、我が家にソッポを向いてしまいました。近所の人でさえ、挨拶を避け、顔を背けて通り過ぎていきました。その人たちを責めるつもりは、毛頭ありません。次は、誰か同じ目に遭うか分からないという恐怖の時代だったのですから。しかし、その思いは、心の奥底に沈殿して残りました。勿論、青春は常に青春であり、スターリン時代でさえ、それは青春であり続けました。その時代にも、喜びが全くなかったというわけではありません。が、それと同時に言えることは、ソ連の人々は、遅かれ早かれ、精神的眠りから覚醒し、この恐怖心を脱ぎ捨てて、本当に思っていることを声に出して話すことを、そして無実の罪に苦しむ人を弁護し、体験を語ることを学ばなければならなかったのです。それは、自由になるための覚醒です。私は、ほかでもない私と、志を同じくする友人たちと共に、我が国が、この氷点からの一歩を歩み出し、漸進的民主主義を目指すところまで、幸いにも事をなし得ました。私はそれだけで幸福です。」と。『二十世紀の精神の教訓』での述べています。
思うに、ゴルバチョフ氏は、ロシア民主化のきっかけとなった、ペレストロイカという歴史的変革を推進した政治家でした。ロシア民主化の過程で、ソ連共産党書記長という絶大な権限を有する自らの権力基盤を切り崩すかもしれないことを承知していながら、あえて、”火中の栗”を拾おうとしました。その勇気は、万人が認めるところでしょう。
ゴルバチョフ氏は、このようにも言っています。「私の個人的哲学の礎石は、一人一人の人間に内在する価値を信じ、人間が本来持っている論理的、社会的存在価値を認めることにあります。『仏教では、すべての人々は、《仏性》という仏の性分、すなわち、理想的人間形成の種子、可能性が平等に具わっている、と洞察しております』」と。続けて曰く「現在の世界的規模で、論理的、精神的危機が深刻化し、蔓延してきていることが露呈してきました。ヨーロッパ文明の発展を支えてきた価値観や機構は今や息絶えんとしています。消費への執着とたゆまぬ資本の蓄積は、人類にとっての要の問題である人間と自然とのバランスを崩すという結果を生んでしまいました。人類は麻薬やテロなど、犯罪の激増を阻止することがどうしてもできないでいます。また、野蛮な行為や民族紛争の新たな波に対しても、不意を突かれた格好になってしまったことは、近年の一連の出来事が示しております。
だからこそ今、今世紀のロシアと日本の経験をはじめとして、人類が経験したことの論理的な意味を考えてみようとする、私たちの試みは有益であり、せめて新世紀を前にした今の人類の道徳的・精神的状況を、真摯に振り返ってみる一助ともなればと思うのです。・・・全人類的価値――それは現実であり、異なる文明の融合と相互理解の礎となるものです。ただし、それは力や偏見の言葉でなく、倫理の言葉を使って対話を展開した時に初めて可能になります。・・・今こそ政治と道徳の宿命的断絶を克服して、未来に『多様性の世界』を創っていかなくてはならない。また本当の自由とは心の内から発する光の中にこそある、という事には大半の人々が賛同するでしょう。」と述べています。
このコメントは、対談「二十世紀の精神の教訓」(聖教新聞社)から引用しました。
長文のゴルバチョフ氏のコメントを引用しましたが、人類の世界平和論が多岐にわたって展開されています。
私が声を大にして、叫びたいのは、新しいヒューマニズムを基調として世界平和を展開しているゴルバチョフ氏こそ、現在再登場してもらいたい大政治家であり、指導者であると思っている。
しかし、現在84歳のゴルバチョフ氏は、ご本人は、それを望んではいないようですが、その信念と人格を受け継いでくれる後継者が陸続と現れ、世界中の良識ある指導者と心ある民衆が連帯して、人類の恒久平和の実現に向けて、人々を啓発していただきたく思う。
この手記を、最後まで読んでいただき、心から感謝申し上げます。
私にとって、この度の慰霊巡拝は、我が人生の宝ともいえる貴重な旅でした。
日本政府とロシア連邦の関係者、参加された遺族の皆様に、心から感謝申し上げます。皆様の、ご健康とご多幸を衷心より、お祈りいたします。
2015年12月10日 (父の71年目の命日) に記す