日蓮大聖人と 「法華経」 について


 民衆仏法の確立 (南無妙法蓮華経) とは?

 日蓮大聖人は、『法華経』の真髄を万人が実践し成仏できる修行法を教示されました。
そこで、真の意味で「民衆仏教」が確立しました。
 日蓮大聖人は、釈尊の経典を広く、また深く考察し、釈尊の教えの肝要は『法華経』である、と結論づけました。
そして、インドの釈尊、中国の天台大師、日本の伝教大師、それに、ご自身を仏教の正当な信仰を継承した「三国四師」と位置づけました。それと同時に、末法という時代を鑑み、時代にふさわしい『法華経』の真髄の修行法を示したのです。
 天台大師は、『法華経』に基づいて、すべての人々に仏界が本来的に具わっており、成仏が可能であるという法理を「十界互具」として打ち立てた。そして、万人の普遍的救済原理を示したのです。そして、その仏界を体得する修行法を『摩訶止観』における「一念三千」の観念観法などとして教えました。(沈思黙想して、一念三千の観心・一心三観を覚る事。つまり、妙法蓮華経を覚る事)
 しかし、このような修行法は、出家者でさえも容易ではなく、いわんや多くの末法の一般民衆には、現実的に不可能な修行法でした。日蓮大聖人は、「十界互具」「一念三千」の法理をふまえつつ、信仰の対境として曼陀羅本尊を顕しました。
 その本尊に「南無妙法蓮華経」と唱題することによって、すべての人々が本来具わっている清浄な仏界を顕現し、成仏できるという、万人に可能な修行法を確立されたのです。また、日蓮大聖人は『法華経』の慈悲の精神を社会のあらゆる分野に顕現し、社会正義と理想社会の実現を目指すべきであると教えました。
 日蓮大聖人は『法華経』に示される「娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」「我此土即仏国土(がしどそくぶっこくど)」の理念の通り、この現実の娑婆世界を「寂光土」とし、「仏国土」とすべきことを説きました。
 日蓮大聖人は、自然災害や病気、飢饉などに苦しんでいた民衆を救済しようと「立正安国論」を著されました。
この「立正」とは、指導者をはじめとする社会の構成員の精神・思想を、『法華経』の生命の尊厳等の理念にかなうものに変革することです。「安国」とは、全世界の民衆の平和と安寧を意味します。「国」と言っても、国家主義的なものではありません。
 その根拠の一つをあげれば、日蓮大聖人は、「立正安国論」の中で、多くの場合、「国」の字を玉ではなく「民」の字を使っています。ここに、「国」にとって「民」こそが根本であるという思想が、明確に示されています。

 日蓮大聖人「日女御前御返事」(新御書2086頁)に、「そもそも、この御本尊は、在世五十年の中には八年、八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり。さて滅後には、正法・像法・末法の中には正像二千年にはいまだ本門の本尊と申す名だにもなし。いかにいわんや、顕れ給わんをや。また顕すべき人なし。天台・妙楽・伝教等は、内には鑑み給へども、故こそあるらめ、言(ことば)には出(い)だし給わず。彼(か)の顔淵(がんえん)が、聞きし事・意(こころ)には覚といへども、言に顕して言(い)わざるが如し。しかるに、仏の滅後二千年過ぎて末法の始め五百年に出現せさせ給うべき由経文赫赫(かくかく)たり、明明(めいめい)たり。天台・妙楽等の解釈分明なり。
 ここに日蓮、いかなる不思議にてや候らん、竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)等、天台・妙楽(みょうらく)等だにも顕し給わざる大曼荼羅(だいまんだら)を、末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通の旗印として顕し奉るなり。これ全(まったく)く日蓮が自作にあらず、多宝塔中(たほうたちゅう)の大牟尼世尊(だいむにせそん)、分身(ぶんしん)の諸仏、摺形木(すりかたぎ)たる本尊なり」と述べています。
 また、四条金吾殿御返事(同1554頁)に、「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり。経に云く『衆生所遊楽(衆生の遊楽する所)』云云。この文、あに自受法楽にあらずや。『衆生』のうちに貴殿もれ給うべきや。『所』とは、一閻浮提(いちえんぶだい)なり。日本国は閻浮提の内なり。『遊楽』とは、我らが色心(しきしん)・依正(えしょう)ともに一念三千・自受用身(じじゅゆうしん)の仏にあらずや。法華経を持(たも)ち奉るより外に遊楽はなし。『現世安穏・後生善処』とは、これなり。ただ世間の留難来るともとり(取り)あ(合)え給うべからず。賢人・聖人もこの事はのが(逃)れず。ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経と唱へ給え。、苦をば苦と覚り、楽をば楽と開き、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうち唱え居させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力を致し給え、恐恐謹言」と仰せになっています。

 日蓮大聖人は、人々が真実を装って間違った哲学、宗教に誑かされ、為政者から利用され、苦しめられている実態を、体感して、大慈悲心を起こされ、釈尊の真実の教えは、法華経に説かれていると叫ばれ、ご自身が覚知した「南無妙法蓮華経」こそが、真実の教えであると胸奥から発せられました。そして、未来の民衆の救済にも心を向けられ、数多くの御消息文を弟子たちに託されたのです。この日蓮大聖人の尊い教えを、現在、世界中に弘めている団体は、創価学会であると心から確信している。

 ここで私の信仰体験と、喜びの一端を語りたいと思う。但し、入信動機は他の所で述べているので、割愛させていただく。
 1998年11月10日から30日まで、戸田記念国際記念会館で、「法華経とシルクロード」展が、開催された。
 私は、東洋哲学研究所の依頼を受けて、法華経を中心とした、貴重な写本を写真撮影させていただいた。その時の感動は、日々を重ねても思い出し蘇ってくる。この時の体験は、別の称で述べるので、ここでは割愛します。
 「法華経」をもっと深く研鑽したいと思って、サンスクリット語を和訳された書籍を買い求め、漢訳されたものと照らし合わせて、読み始めた。当初は岩本裕氏が岩波文庫で、サンスクリット語の『法華経』を和訳した本を読んでいたが、後に、古代インド語(サンスクリット語)の大家である、植木雅俊氏の和訳本に、切り替えて研鑽した。植木雅俊氏は、南無妙法蓮華経の「南無」とは、サンスクリット語のナマス、あるいはその変化形のナモーを音写したもので、「敬来」「帰依」「帰命」と漢訳された。「妙法蓮華経」は『法華経』という経典の正式名称である。従って、「南無妙法蓮華経」とは、『法華経』に「南無」(帰依・帰命)することです。
「妙法蓮華経」は、サンスクリット語のサットダルマ・プンダリーカ・スートラの鳩摩羅什(344年~413年)による漢訳である。サットダルマが「正しい(サット)、教え(ダルマ)」で、プンダリーカが「白蓮華」、スートラが「経」を意味するので、、竺法護(239年~316年)は「正法華経」と漢訳した。
 岩波文庫の『法華経』で岩本裕氏は(1910年~1988年)は「正しい教えの白蓮蓮」と現代語訳した。いずれも単語の語順通りに訳したもので、尤もそう見えることから、鳩摩羅什訳が間違っていると主張する学者が多かった。しかし、サンスクリット語の文法で「プンダリーカは、複合語の後半にきて前半の言葉を譬喩的に修飾する」という特別な用法が規定されている。そうすると「白蓮華のような正しい教え」となる。「~のような」で譬喩される前半と後半の言葉の共通性は「最も勝れた」であって、それを加味すると、「白蓮華のように最も勝れれた正しい教えの経」と訳すべきことが分る。サットは「正」であって、「妙」の意味はないと批判されてきたが、その批判のほうが間違いで、「最も勝れた正しい」を鳩摩羅什は「妙」と漢訳していたのだ。その証拠に、鳩摩羅什はサンスクリット語のヴァラを随所で「妙」と漢訳している。鳩摩羅什の漢訳は間違いどころか、”絶妙”な漢訳であったのだ。このように植木雅俊氏は述べています。

 日蓮大聖人は第二祖、日興上人に『法華経』の講義を行い、その内容を筆録され、日蓮大聖人から御印可を受けた「御義口伝」(同984頁)に『南無妙法蓮華経』(なむみょうほうれんげきょう)の南無とは梵語(ぼんご)なり、ここには帰命(きみょう)と云う。人法これ有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり。法とは法華経に帰命し奉るなり。また云わく、「帰」と云うは迹門不変真如(しゃくもんふへんしんにょ)の理に帰するなり。「命」とは本門隨縁真如(ほんもんずいえんしんにょ)の智に命(もと)づくなり。「帰命」とは南無妙法蓮華経これなり。釈に云わく『隨縁・不変は、一念の寂(じゃく)・照(しょう)なり』また「帰」とは我らが色法なり。「命」とは我らが心法なり。色心不二なるを一極(いちごく)と云うなり。釈に云わく『一極に帰せしむるが故に仏乗と云う』。また云わく、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)の『南無』とは梵語、『妙法蓮華経』は漢語なり。梵漢共時(ぼんかんぐじ)に南無妙法蓮華経と云うなり。
 また云わく、梵語には『薩達磨(さつだるま)・芬陀梨侞(ふんだりきゃ)・蘇多覧(そたらん)』と云う。ここには『妙法蓮華経』と云うなり。「薩」とは妙なり。「達磨」とは法なり。「芬陀梨伽」とは蓮華なり。「蘇多覧」とは経なり。九字(くじ)は九尊(くそん)の仏体なり。九界即仏界の表示なり。「妙」とは法性(ほっしょう)なり。「法」とは無明(むみょう)なり。無明・法性一体なるを妙法と云うなり。「蓮華」とは因果の二法なり。これまた因果一体なり。「経」とは一切衆生の言語音声(ごんごおんじょう)を経と云うなり。釈(しゃく)に云く「声(こえ)、仏事をなす。これを名づけて経となす」。あるいは三世常恒(さんぜじょうごう)なるを経と云うなり
 法界は妙法なり。法界は蓮華なり。法界は経なり。蓮華とは八葉九尊の仏体なり。能(よ)く能くこれを思うべし。

 私は、ここまで研鑽した結果、重要なことを発見し、改めなければならないと痛感した。それは、日蓮大聖人の教えの根本は、大聖人が顕された御本尊を受け信じ南無妙法蓮華経と唱えることが、最も正しい仏道修行であると、教えてくれたのが、日蓮正宗であり、創価学会であると感動して、感謝しこの信仰を続けてきた。
 ところが、この研鑽の結果、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)と唱えるべきところを、(なみょうほうれんげきょう)と唱えさせていた事である。
 つまり、「南無」とは梵語(サンスクリット語)で、ナマーまたはナモーの発音を漢語で表現したのが南無(なむ)であり、(なん)ではないという事である、勤行の終了時には、引き題目を唱えることになっており、その時は(なーむーみょうーほうーれんーげーきょうー)と正しい発音で唱えることになっているが唱題行の時は、必ず、(なみょうほうれんげきょう)と唱えることになっている。
 しかし、日蓮大聖人の御書を拝読する時は、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)と正しい発音で読んでいたのである。
また、勤行唱題行後に御観念文の時は、日蓮大聖人に南無(なむ)し奉り。日興上人に南無(なむ)し奉り。と。読んでご祈念することになっている。この矛盾はほとんどの人は気づいていないようだ。私もそうであった。この矛盾をそのまま受け継いできたのが創価学会である。しかも、いつの間にか何の説明もなく、引き題目は削除され、御書の拝読の時も、(なみょうほうれんげきょう)と発音させている。それと、もう一つ、発音に際し無視してはいけない点があることに、気づいたのである。
それは、(なみょうほうれんげきょう)と発音して、唱題行を行うと、(な)の()の発音が強すぎて、次の(みょう)の(み)の発音が(ん)に隠され濁った、(んよう)と発音されてしまう事である。
 此の事は、看過してはいけないと、強く思ったのである。(なむみょうほうれんげきょう)と唱え、(なむ)と発音した時は、ハッキリと綺麗に(みょう)と発音出来るのである。そこで、 私は、2001年1月1日から、(なむみょうほうれんげきょう)と綺麗に発音して唱題行を行っています。
 何故このことに、こだわるかと申しますと、天台大師は「法華玄義」で「妙」の意義について、迹門、本門の二門の中にそれぞれ「十妙」が具している。妙の一字に二十種の不可思議があると説いている。
 日蓮大聖人は、法華経題目抄(妙の三義の事)(同541頁)に「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すは、蘇る義なり」と述べられ信仰者の功徳を説かれています。
一生成仏抄(新御書318頁)には「そもそも妙とは何と云う心ぞや。ただ我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり。不思議とは、心も及ばず語(ことば)も及ばずということなり。しかればすなわち、起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云わんとすれば色も質(かたち)もなし、また無しと云わんとすれば様々に心起こる。有りと思うべきにあらず、無しと思うべきにもあらず。有無の二つの語も及ばず、有無の二つの心も及ばず。有無にあらずしてしかも有無に遍(へん)して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり。この妙なる心を名づけて法ともいうなり。この法門の不思議を表すに、譬えを事法に象(かた)どりて蓮華と名づく。一心に妙と知りぬればまた転じて余心をも妙法と知るところを、妙経とはいうなり。しかればすなわち、善悪に付いて起こり起こるところの念心の当体を指して、これ妙法の体と説き宣(の)べたる経王なれば、成仏の直道とはいうなり。この旨を深く信じて妙法蓮華経と唱えば、一生成仏さらに疑いあるべからず。」と仰せになっています。
 また、千日尼御前御返事(同1744頁)には。
「一切の諸仏、尽十方世界(じんじっぽうせかい)の微塵数(みじんじゅ)の菩薩等も、皆ことごとく法華経の妙の一字より出生し給えり」。また同御書に「法華経を供養する人は、十方(じっぽう)の仏菩薩(ぶつぼさつ)を供養する功徳と同じきなり。十方の諸仏は妙の一字より生じ給える故なり」。とも仰せになっています。
 このように「妙」という文字は甚深の深い意味が込められており、仏をも出生(しょっしょう)させる力用(りきゆう)がある「妙」の一字であるので疎かにはできないと思う。

 植木雅俊氏は、すべての書籍の中で、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)と表記されています。
正に、日蓮大聖人も『南無妙法蓮華経』(なむみょうほうれんげきょう)と発音されて唱えていただろうと推測します。
故に、私は、「妙」の字に込められた意義を重んじて、(なむみょうほうれんげきょう)と心を込めてハッキリと綺麗に唱えています。

 日蓮大聖人は、御義口伝で、「梵漢共時に南無妙法蓮華経」と仰せになっています。

つまり、梵語である「南無」と漢語の「妙法蓮華経」は一体(合体)であり、釈尊から日蓮大聖人に至る教えは、寸分の違いもなくもなく、正しく伝わっているのが、南無妙法蓮華経である。と仰せになっているのである。

 植木雅俊氏は「梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり」の文を、解説しています。「梵漢共持(ぼんかんぐじ)」とは、現代的に意義付けすれば、「インターナショナル」と言い換えることができよう。当時の世界認識として、「梵漢」とは、大まかであれインターナショナルな言葉を意味していたと言える。当時の人たちにとって、梵語と漢語は ”全世界” を意味していた本朝(日本)・震旦(中国)・天竺(インド)の三国で用いられていた言葉である。現代においても、そのことは何ら変わっていないと言ってもよいであろう。というのは、サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族に入っていて、欧米語とルーツは同じであるからだ。
 だから、「梵漢」という表現で、中国、韓国、日本、東南アジアなどの漢字文化圏、そして中東、ヨーロッパの言語など、サンスクリット語とルーツを同じくするほとんどの国々を網羅することになる。文字通りインターナショナルを意味していると言えよう。
インド・ヨーロッパ語族の言葉を話している人たちは、世界の人口の約半分を占めている。それに、漢字文化圏を入れると、中国だけで14億人以上(2022年現在)、それに日本が1億200万人以上(2022年現在)だから、「梵漢」の言葉を用いている人々は、世界の人口の大半を占めていることになる。文字通りインターナショナルである」と。植木雅俊氏は、述べておられる。
 ここで、もう一度、日蓮大聖人の甚深の法門を御書を通して拝してみたい。
 大田殿女房御返事(即身成仏抄)(同1381頁)に。
妙法蓮華経の五字の中に、諸論師・諸人師の釈まちまちに候えども、皆、諸経の見(けん)を出でず。ただし、竜樹菩薩の大論と申す論に、「譬えば、大薬師(やくし)の能(よ)く毒をもって薬となすが如し」と申す釈こそ、この一字を心得させ給いたりけるかと見えて候え。毒と申すは、苦・集(じゅう)の二諦(にたい)、生死(しょうじ)の因果、毒の中の毒にて候ぞかし。この毒を生死即涅槃(しょうじそくねはん)・煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)となし候を、妙の極(ごく)とは申しけるなり。良薬(ろうやく)と申すは、毒の変じて薬となりけるを良薬とは申し候いけり。この竜樹菩薩は、大論と申す文(ふみ)の一百(いっぴゃく)の巻に「華厳・般若等は妙にあらず、法華経こそ妙にて候え」と申す釈なり。この大論は、竜樹菩薩の論、羅什三蔵と申す人の漢土へ渡して候なり。天台大師は、この法門を御覧あって、南北をば責めさせ給いて候ぞ。と仰せになっています。また、
 内房女房御返事(同2031頁)に。南無と申す字は、敬(うやまう)心なり、随(したが)う心なり。故に、阿難尊者は一切経の「如是」の二字の上に「南無」等云々。南岳大師云わく「南無妙法蓮華経」云々。天台大師云わく「稽首(けいしゅ)南無妙法蓮華経」云々。阿難尊者は、斛飯王(こくぼんおう)の太子、教主釈尊の御弟子なり、釈尊御入滅の後六十日を過ぎて、迦葉(かしょう)等の一千人、文殊等の八万人、大閣講堂にして集会(しゅうえ)し給いて、仏の別れを悲しみ給う上、「我らは多年の間随逐するすら六十日の間の御別れを悲しむ。百年千年乃至末法の一切衆生は何をか仏の御形見とせん。六師外道と申すは八百年以前に二天三仙等の説き置きたる四韋陀(しいだ)・十八大経をもってこそ師の名残とは伝えて候え。いざさらば我ら五十年が間、一切の声聞・大菩薩の聞き持ちたる経々を書き置いて、未来の衆生の眼目(げんもく)とせん」と僉議(せんぎ)して、阿難尊者を高座に登らせて仏を仰ぐごとく、下座にして文殊師利菩薩、南無妙法蓮華経と唱えたりしかば、阿難尊者これを受け取って「かくのごときを我聞きき」と答う。九百九十九人の大阿羅漢等は、筆を染めて書き留め給いぬ。一部八巻二十八品の功徳はこの五字に収めて候えばこそ、文殊師利菩薩かくは唱えさせ給うらめ。阿難尊者またさぞかしとは答え給うらめ、また万二千の声聞・八万の大菩薩・二界八番の雑衆も有りしことなれば合点せらるらめ。と仰せになっています。
 
 次に、創価学会SGI会長とロケッシュ・チャンドラ博士(インド文化国際アカデミー理事長)との対談を記したいと思います
 この対談は、2002年10月 「東洋の哲学を語る」第三文明社から、発刊された書籍です。この対談を引用しました。
 私が、この書籍を選んだ理由は、数ある仏教書のなかで、おそらく、仏教に興味をもてなかった方、初心者にも理解できように平明に語りかけていて、しかも、奥が深いところにも、正確で優しく丁寧に説明されており、この書籍が最も勝れている点です。
      法華経の行者と事の仏法
池田 これまで、長遠(ちょうおん)な人間の哲学の営みを、仏教の歴史を軸に、ともに振り返ってまいりました。今回は、日蓮大聖人の仏法について語り合いたいと思います。
チャンドラ いよいよ核心です。本当に楽しみです。
池田 日蓮大聖人は、深遠(じんのん)な仏教思想史を深く考察したうえで、万人の成仏を説く法華経に着目し、自ら「法華経の行者」としての如説修行(にょせつしゅぎょう)を行いました。
チャンドラ その通りです。日蓮大聖人は、実践の人です。行動の人です。
池田 すでに見てきたように、法華経を尊重した仏教者は、竜樹・世親・天台・伝教をはじめ多数、出現しました。
   博士が、これらの法華経実践者のなかでも、日蓮大聖人に強い関心をもたれるのはなぜでしょうか。
チャンドラ きっかけは、九歳の少年のころにさかのぼります。今もその時の情景が思い浮かんできます。
   そのころの我が家での話題は、一つはイギリスからインドの自治を得るための闘争でした。もう一つは、 仏教の美術と哲学だっのです。私の父は、インドと日本が、ともに数世紀にわたって仏教を信奉してきたこと、また、当時、ヨーロッパの文化と政治的支配による絶え間ない攻撃にさらされていることを考えていました。
 日本は独立国であり発展を遂げていましたが、インドは帝国主義支配の下にありました。そのころ、父は、姉崎正治博士による『法華経の行者 日蓮』と『日本宗教史』を驚嘆の思いで読み終えていました。
 日蓮大聖人は、理論と実践、古きものと新しいものを融合させております。そして、法華経を時代の要請に応じて、展開していったのです。
池田 博士が幼少のころの日本の発展は、帝国主義体制に苦しむアジアの人々にとっては、一つの希望だったともいわれています。
   しかし、日本は、自らも帝国主義をかざして、アジア諸国を侵略し、その期待を裏切ってしまいました。非常に残念な歴史の事実です。
     「日蓮」の名乗りに深義
チャンドラ 姉崎博士は、「日(にち)」すなわち太陽と「蓮(れん)」すなわち蓮華を名にもつ人物の、精力的な精神と深遠な魂について語っています。
池田 大聖人は、「日蓮と名のる事、自解仏乗(じげぶつじょう)とも云いつべし」(同1369頁)と、御自身の名乗りに深い意味があることを示されています。また「明らかなる事、日月に過(す)ぎんや。清きこと、蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮また日月と蓮華との如くなり」(同1510頁)とも述べられています。
チャンドラ 私の父は、この「太陽」と「蓮華」のそれぞれを、プラジュニャー(般若)すなわち「智慧」と、パーラミター(波羅蜜)すなわち「徹した実践」としてとらえていました。
池田 実に鋭い卓見です。「日蓮」という御名の意義への着眼は、まことに重要です。「日」(太陽)と「蓮」(蓮華)の深義(じんぎ)については、後ほどあらためて語り合いましよう。
 日蓮大聖人は、「智慧」と「慈悲」の実践によって、法華経の根底に成仏の基盤となる「究極の法」があることを明かし、その法が「南無妙法蓮華経」であると説き示しました。また、その実践の肝要とは、地涌の菩薩の自覚に立って「不軽菩薩(ふきょうぼさつ)」のように人間尊敬の行動を貫くことであると、自らの生涯にわたる忍難弘通の行動で示したのです。いうなれば、それは「命がけの徹した実践」であられました。
チャンドラ 今も、父の朗々と語る声がはっきり聞こえてきます。
 ――1253年の初夏の朝、日蓮は丘に登り、法華経の精髄である題目(南無妙法蓮華経)を唱えた。その時、証人として立ち会ったのは、太平洋の水平線から昇る太陽であった。なんと雄大な舞台設定だろうか。太陽の鼓動が生命の脈動と共鳴する。昇りゆく太陽、力強さを増す唱題の声、胸中にあふれんばかりの理想。山、海、果てしなき水平線。題目の獅子吼が万物の根源と響きあう――。 私は、法華経に秘められている力に包まれて、強い意志を表出した日蓮大聖人について語る、父の言葉に耳を傾けていました。父は、大聖人の題目を唱えることに、光の価値と、力の価値を見ていたのです。
池田 聡明な父君は、日蓮大聖人の御振る舞いに、人類救済の希望と勇気を見いだしておられたのですね。
チャンドラ 今も私は、その時の父の表情、まなざしをありありと思い出します。父の高らかな声が響いてきます。
 「我日本の柱とならん、我日本の眼目(がんもく)とならん、我日本の大船(たいせん)とならん等と誓し願い破るべからず」(同114頁)
 父はこの大聖人の言葉に自身を重ねていました。インドに対する同じ使命をわきあがらせていたのです。
 日蓮大聖人は、法華経に基づいて、いまだ知らぬかなたの浄土ではなく、娑婆世界、すなわち私たちが住むこの現実世界こそが、真の仏の国土であると喝破しています。そして、苦悩渦巻くこの社会を、仏の理想の社会にするために、法華経の精神を弘め、脈動させていかなければならないと訴えました。
     「世界の平和」実現目指し
池田 その通りです。大事な視点です。日蓮仏法の真髄に迫る観点です。
 大聖人は、確かに「日本の柱」等と仰せですが、決して一国平和主義にとどまるものではありません。
 法華経の経文のままに、「閻浮提広宣流布」、すなわち世界に生命尊厳の思想を確立することを目指されたのです。
 真の愛国者は、世界的視野がなければなりません。
 万人が現実に幸福になるための仏法です。全民衆の救済、人類社会の繫栄、世界平和の実現――それこそが究極の願いです。
 そのためにも、それぞれが自分の生まれた郷土を大切にし、発展させていくことは欠かせません。自分を生み育んだ郷土の特性を理解し、発展させることができなければ、他の人々が生まれ育った土地の特性も分からず、活(い)かしていくこともできないでしょう。これは、私どもの初代会長である牧口先生も指摘していることです。
チャンドラ まったく賛成です。すべての国が、それぞれの立場で最高の精神的使命を担った国となるべきである、といのが、父の確固たる信念でもありました。父にとって、大聖人は、「人間が逆境の中で示す偉大さの模範」でした。「生命に具わる清らかさと栄光を象徴する人物」だったのです。
 大聖人は、父にとって、すべてを支える根本であり、勇気そのものであり、力をわき立たせてくれる存在でした。
 大聖人は、法華経に、若々しさと、燃え上がる熱い心と、力強い簡潔さを与え、蘇らせたのです。そして、強力な智慧が火花を散らし、その火は民族全体の生命に影響を与えたのです。
池田 大聖人によって父君の心に灯された法華経の火は、博士に受け継がれ、ますます強く輝き、熱く燃えているのを感じます。
 民衆の中からお生まれになった大聖人は、民衆救済の大情熱をもって、生涯、戦い続けられました。
 そして、「熱原(あつはら)の法難」という民衆自身の法難を契機に、妙法と一体をなす自らの生命をそのまま図顕し、一閻浮提、すなわちこの全世界の民衆救済のための「御本尊」を顕されたのです。この点から。日蓮仏法は、「事の仏法」、現代風にいえば ”実践・実現の仏法” であると位置づけられます。
 この日蓮仏法に比すれば、天台・伝教を大成者とするそれ以前の仏法は、まだ理論だけにとどまっていたといえるのです。
チャンドラ よく分かります。日蓮大聖人は、「現実的な理想主義者」です。その思想は、近代合理主義を乗り越えるポスト・モダン(脱現代)です。いや、それ以上に「永遠」の真理です。
      「日蓮仏法」の特質 
池田 博士は、日蓮仏法の、どのような点に、特に注目されていますか。
チャンドラ 何点かあります。
 まず第一は、「普遍的な生命の尊厳」を説くことです。
”一切衆生が悟りを得ることができる” という主張が素晴らしい。すべての生命は神聖であり、本来的に悟りの可能性を具えているととする。すべての生命は、原罪などの悪ではなく、最高の善、尊厳性を具えているのです。
池田 それこそ、まさに法華経の教えの真髄です。
チャンドラ 第二点として、その法華経の教えを信じることを明示したことです。大聖人は、「究極の法」が法華経に秘められていると簡潔に教えました。
 さまざまな法理に関心ある人は、竜樹・世親・天台・伝教らの著作を参考にすればいいのです。
 そして第三点は、ここからが、日蓮大聖人の独創です。
 法華経を信じ、「南無妙法蓮華経と唱える」ことによって仏界を涌現できると明かしたことです。
 第四には、「御本尊」を図顕し、法華経の法理を一幅(いっぷく)の曼陀羅(まんだら)に納(おさ)めたことです。
 そして最後に、「戒壇」に象徴的な意味を与えたことです。すなわち、戒壇建立を訴えて、社会的な責任を強調したことです。
 このように、大聖人が、普遍的価値、生命の清浄な尊厳性、具体的で簡明な実践を説き示したことは、人類史上、革命的なことで す。
池田 大聖人独自の法門についての実に貴重なご見解です。
チャンドラ 社会的責任の重視とは、理想社会をこの世界に実現しようとすることです。
 日蓮仏法は、個々人の救済のみならず、社会の変革を説いています。人々が住む国土に仏界を顕現することを目指しています。
池田 それこそ「立正安国」です。「世界平和」です。博士のご指摘の通り、立正安国は、一念三千の法門の国土・社会的次元での実現といえるでしょう。人々の幸福を実現するために、皆が住む社会を変革していく――その行動・実践も当然、「事の仏法」に含まれます。
チャンドラ ええ。日蓮大聖人は、天台・伝教の「理の一念三千の仏法」と、自らの「事の仏法」を対比しつつ、 ”行動することがこの経を生きることになる” と主張しました。「色読(しきどく)」「身読(しんどく)」です。
池田 その色読・身読とは、経文にある通り、大難をも恐れず、悪世に妙法を弘通することでした。
 日蓮大聖人は、「天台・伝教等の御時には理なり、今は事なり。観念すでに勝る故に大難また色まさる。彼は迹門の一念三千・これは本門の一念三千なり。天地はるかに殊(こと)なりことなり」(同1333頁)と述べられています。
 これは、仏法の真髄をより深く、ご自身の生命のうえにとらえている自負を表明した言葉といえるでしょう。
 その誇りと責任感が、前代未聞の大難を忍んで弘通される原動力となったことが拝察できます。
チャンドラ 前回確認したように、大聖人は、宇宙のすべてが相互にかかわりあっていることを示す「一念三千」の思想のうち、仏界と九界が相互に包摂しあっているという「十界互具」を強調しました。理想と現実の間に立ちはだかる壁を打ち破り、理想を実現していけるのだ、と訴えたのです。
 大聖人は両手を広げて、私たちに訴えています。人間性を踏みにじるような逆境にあってこそ、人間は身に秘められた超越的な境地を開き顕せる。生きよ、啓発しあえ、創造せよ、一人ひとりの内に眠る力を目覚めさせよ、そして、さまざまな彩の光で世界を照らせ――と。
 日蓮大聖人の精神と魂を、生き生きと継承される池田大作先生は、大聖人の火のような情熱と、文明を変革しようとする意思を蘇らせています。
池田 ありがたいお言葉です。創価学会初代会長の牧口先生は、日蓮大聖人の御生涯に学び、ご自身も、法華経の「学者」や「信者」ではなく「行者」であることを目指しました。法華経の本質がその実践にあることをつかみ取っていたからだと確信します。
 第二代戸田先生も民衆の真っただ中で、民衆と共に法華経を徹して実践し、現実に多くの苦悩を解決されました。
 私は、ただ、この初代と二代の心を継いで、日本を、そして世界を駆け巡ってまいりました。すべての人々が平和で豊かに生活できる世界を願って――。
      宝塔と南無妙法蓮華経
チャンドラ 日蓮大聖人は、法華経の真髄を「南無妙法蓮華経」の一言に要約して説き顕しました。
 すでに見たように、大聖人以前には、慧文(えもん)、慧思(えし)、天台、伝教らは、法華経の教説を、哲学的な理念、観想の実践、献身的な祈りとして展開しています。
 「南無妙法蓮華経」には多くの意義が含まれているでしょうが、最も短く説明すればどうなりますか。
池田 これは、難問中の難問です(笑い)。
 「南無妙法蓮華経」は、単なる経典の題名であるのはではなく、天台が『法華玄義』で「名体宗用教(みょうたいしゅうゆうきょう)の五重玄(ごじゅうげん)」として述べているように、仏教の智慧・法理のすべてが納まっています。また、法華経が指し示す「究極の仏」は、すでに見たように、万人の生命に具わっている尊厳性です。
 生命に具わる仏の境涯を「無作(むさ)の三身(さんじん)」といい、「御義口伝」では、その名が「南無妙法蓮華経」であると明かされています。
チャンドラ 明快なお答えです。宇宙の万物に具わる尊厳な本性そのものをいうのですね。
 それを表現したのが、曼陀羅の「御本尊」ですね。
池田 そうです。
 日蓮大聖人は、ご自身の生命に具わっている尊厳なる仏界の生命を、法華経の「虚空会(こくうえ)の儀式」を用いて顕され、人々が修行するための本尊としました。
「虚空会」は、釈迦・多宝の二仏(にぶつ)が並坐(びょうざ)する宝塔(ほうとう)を中心とした儀式として説かれます。
チャンドラ 虚空会の始まりは宝塔の出現ですね。
 妙法蓮華経では第十一章でです。それまでの十章で説かれた前代未聞の深遠な真理の法門を正しいと証明するために、多宝如来が宝塔に乗って出現します。
 多宝如来は過去世に、法華経が説かれるところに必ず出現し讃嘆すると誓っていました。その誓いを果たしたのです。
 多宝如来は宝浄世界(ほうじょうせかい)というかなたの国土に住むとされます。そして無限の過去に成仏した仏です。
 一枚の絵画でも、幾世紀という時間を経た後に、風格が加わり、重厚さが増します。同様に、多宝如来の登場は、法華経の深遠さをさらに奥深いものにしています。
池田 多宝如来は、法華経に開示された法が、時間的には永遠であることを示すものとされます。これに対して、虚空会に集った十方の諸仏は、法の空間的な普遍性を象徴するものです。
 虚空会は、妙法が時空を超えて永遠普遍であることを示しているのです。
      永遠の真理と無限の福徳 
チャンドラ 多宝如来の出現は、永遠の真理が現実となることを表現しているのです。
 多宝如来は他の経典には登場しないようです。また、釈迦・多宝という二人の如来が対等に並んでいるのも画期的です。
池田 これが「二仏並坐」(にぶつびょうざ)の儀式です。
チャンドラ これは法華経の独創です。それゆえ、この宝塔を中心に行われる虚空会こそ、法華経の独自の法門を示すものといえるでしょう。現在の仏である釈迦と、無限の過去の仏である多宝が、まったく等しいのです。
 永遠の真理と無限の福徳が、今、個々の一個の生命に顕れるということです。まさに即身成仏の原理が示されているのです。
 日蓮大聖人は、法華経を目で読んだだけではなく、体験し、実行しました。題目の五字は実に成仏への直道であると、身をもって証明したのです。
 多宝如来の塔は、法華経のなかの個々の教義を指し示すというよりも、むしろ、この経の教え全体、精神が卓越したものであることを強調するものです。ゆえに、宝塔とは南無妙法蓮華経であり、経そのものなのです。
池田 卓見です。日蓮大聖人は、虚空会の宝塔という表象(シンボル)が指し示す意義について、「妙法蓮華経より外(ほか)に宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。宝塔また南無妙法蓮華経なり」(同1732頁)と教えられています。
 そして、「末法に入って法華経を持(たも)つ男女(なんにょ)の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と唱うるものは我が身宝塔にして我が身また多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔また南無妙法蓮華経なり」(同頁)と述べられています。
 宝塔とは、南無妙法蓮華経であり、それははかでもない、私たちの生命に具わる根源の法なのです。
チャンドラ その通りです。題目を唱え実践するすべての信仰者が、さながら生きている宝塔です。
 実践によって信仰者は塔となり、その心は法の宝となるのです。
     「七宝」とは豊かな人間性の輝き
池田 博士は、日蓮仏法の証明者です。実に二十一世紀の多宝如来のようです。
チャンドラ 恐縮です(笑い)。私は理論で証明しますが、池田先生は、さらに行動でも証明されています。
池田 博学を駆使されての見事な理論的証明には、ただただ感銘するばかりです。
チャンドラ 「宝」というのは、清らかに輝きを放つ無限の創造力を意味しています。
 仏教は初期から、「宝」とは悟りを体現する三つのものを象徴してきました。すなわち、仏と法と僧の三宝(さんぽう)です。
 仏とは、悟った人です。法とは、悟られた真理です。僧とは、元来、悟りを目指し、悟りの道へと入った人々の共同体です。
 これらの宝も、胸中の蓮華以外に見いだすことはできません。
池田 そうです。宝塔を飾る宝とは、妙法の実践によって磨かれた心が放つ、人間性の豊かな輝きです。
 日蓮大聖人は、宝塔を飾る七宝とは「聞(もん)・信・戒・定(じょう)・進・捨(しゃ)・慚(ざん)」という七つの徳目である(同1733頁)と解説しています。
「聞」とは、正しい教えに耳を傾けること。
「信」とは、その教えを信じ受けとめること。
「戒」とは、教えに基づき身を律すること。
「定」とは、ゆるぎない心を確立すること。
「進」とは、精進で、たゆまず、またわき目もふらず努力すること。
「捨」とは、種々の執着を捨てるとともに、人々に正しい教えを惜しみなく与えること。
「漸」とは、反省し向上を求めることです。
 また、宝塔の四面(しめん)から吹き出す薫風は、「生老病死」を現ずる生命が発する ”常楽我浄(じょうらくがじょう)の四徳(しとく)波羅蜜” の福徳の香りである(同1031頁)と説かれています。
 「常楽我浄」の四徳波羅蜜とは、永遠に崩れぬ清らかな幸福境涯を断固として完成させていくことです。
 南無妙法蓮華経とは、生命の尊厳性であり、それが開花すれば、豊穣にして確固たる人格的価値として現れるのです。
チャンドラ 宝塔への信仰の実践によって、すべての人々が生命の最高の法を見いだし、自身を輝かせることができる――私たちはこのような深い次元において、自らの人生を豊かにしていくべきでしょう。
 池田先生、あなたは、私たちの内なる活力を呼び起こし、法華経と生命の共鳴へと導いてくださっています。
池田 恐縮です。さて、先ほど、少し触れた日蓮という御名について、もう少し語り合いましょう。博士は、日本での講演で、法華経の題目にも含まれる「蓮華」について論じられました。
 私も、『法華経の智慧――二十一世紀の宗教を語る』で、涌出品(ゆじゅっぽん)を論じる際に、「蓮華の文化史」について語り合いました。
 太陽や月、そして蓮華は、古代インドでは、さまざまな重要な哲学的概念を表していましたね。
チャンドラ そうです。天空の太陽と月は、人間にとって驚くべき自然の力を宿しています。それは、私たちを魅了する雄大な詩を奏でながら迫ってきます。
 太陽は、その特性の豊かさから、古来、スーリヤをはじめ種々の神々として崇拝されました。
 黄金に輝く太陽は、神や人、あらゆる生命に活気を与えるものであり、「サヴィトリ」すなわち ”鼓舞するもの” とも呼ばれました。また太陽は、早朝に現れ、闇を消し去ります。
池田 法華経では、悪世に弘通し、人々を励ます地涌の菩薩のはたらきを日月の光に譬えています。
 「日月の光明の 能く諸の幽冥(ゆみょう)を除くが如く 斯(こ)の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」(法華経584頁)とあります。
 日蓮大聖人は、この経文に基づいて、ご自身が上行菩薩の再誕であることを明かされ、末法の御本仏であることを示唆されていま す。
チャンドラ インドの王族は、しばしば太陽や月の末裔であると称します。王家出身の釈尊も、太陽の末裔であると経典に記されています。
池田 漢訳経典では、「日種(にっしゅ)」日(ひ)を種姓(しゅしょう)とすると表現されていますね。
チャンドラ 太陽と蓮華は、しばしば結びつけて表現されます。ウパニシャッド文献では、太陽を「天空の蓮華」と呼んでいます。太陽神は、しばしば蓮華に座しているとされます。
池田 「黄金の蓮華」や、宇宙の根源として、『リグ・ヴェーダ』にも登場する「黄金の母胎(胎児)」(ヒラニヤ・ガルバ)は、太陽と蓮華の概念が重なりあった象徴として、インドの諸哲学でも重要な思想を示すものとなっていますね。
チャンドラ サンスクリットの「ガルバ」という語には、母胎とその中にいる胎児という意味があります。また蓮華の花托(かたく)も、蓮の種子を孕んでいるのでガルバと呼ばれます。
 ヒラニヤ・ガルバは「アートマ・ダー」、 ”生命を与えるもの” とされ(『リグ・ヴェーダ』)、万物の根源でした。
 釈尊は、万物の根源に立脚しているので、仏教の経典では、宇宙的な蓮華の基盤の上のいるとして描かれることがあります。
 その蓮華の茎は、世界の深部に根を下ろし、世界の中心軸になっているのです。
池田 仏教の経典で、仏の智慧と慈悲が黄金の光を発し、そこに車輪の大きさの黄金の蓮華が生じて、その中から仏・菩薩が生じるという説が、しばしば説かれていますね。
 「根本説一切有部琵奈耶雑事」では、この蓮華が「妙蓮華」と呼ばれ、仏が示す究極の神変(神通力を示すこと)であると説かれています。
チャンドラ 「白蓮華のごとき慈悲」という題名の経典があります。漢訳では「悲華経(ひげきょう)」等と呼ばれています。この経典では、苦悩と悪が渦巻くこの娑婆世界に出現して悟りを得、一切衆生の救済に献身した釈尊の最高の慈悲が協調して説かれています。釈尊は、他の諸仏のように浄土を選ぶことなく、あえて、この穢土(えど)を選んだのです。そこに慈悲が勝っていることが示されています。
 それゆえ、釈尊は、蓮華の中でも最高の白蓮華に譬えられ、他の仏は他の花に譬えられるのです。
 白蓮華つまりプンダリーカは、最高の価値の象徴であり、他の人々のために尽くそうとする尊極の慈悲の象徴であり、あらゆるものに内在する悟りを呼び覚ますものの象徴なのです。
 御存じのように、妙法蓮華の蓮華もまた、プンダリーカ、白蓮華です。妙法蓮華は、釈尊滅後のための教えです。落ち葉の後に訪れる「春」をもたらすものです。そして、人々の生命に具わる「種子」を目覚めさせ、見事な花を咲かせるのです。
     蓮華が示す理想・尊厳・向上
池田 蓮華のもつ意義については、世親(せしん)の『法華論(ほっけろん)』やそれを受けて、天台大師の『法華玄義』等で詳しく展開されております。
 そのなかでも、日蓮仏法では「汚泥不染(おでいふぜん)の徳」「因果同時の徳」「種子不失の徳」(『富士宗学要集』第三巻)に特に注目します。
 「汚泥不染の徳」とは、地涌の菩薩が苦悩渦巻く現実世界で、清らかな心と実践をたもち、人々を教え導く徳性を意味します。
 「因果同時の徳」とは、今、どのような境涯を現わしていても、すべての人々の生命には、本然的に清浄な ”仏の生命” が具わっているという徳性を意味します。
 「種子不失の徳」とは、生命に本然的に具わる清浄な ”仏の生命” は、どのような時にも損なわれることなく、縁にふれれば、必ず発現するという徳性を意味します。
チャンドラ 素晴らしい着眼です。
 第一の「汚泥不染の徳」は、菩薩の理想を社会に実現するものです。価値創造の行動です。
 第二の「因果同時の徳」は、生命の尊厳、人間の尊厳の宣言です。人々を崇高な境地へ至らせるための希望のメッセージです。一人ひとりが自分自身に目覚め、立ち上がり、悟り、自身の未来を自由に決定していける主体者になるべきであるし、また、なれるということです。
 第三の「種子不失の徳」は、無限の向上への促しです。なにがあっても、どのような状況であっても、悟りに向かって、幸福に向かって、挑戦する資格があるということです。
池田 見事な分析と展開です。蓮華の経たる法華経は、まさに「永遠の希望の経典」「励ましの経典」です。
チャンドラ このような蓮華の譬えで示された事柄は、現代文明の隘路にあって、人間が進むべき方向を指し示しています。
 池田先生、あなたは、智慧と慈悲と行動への道を示されています。あなたは、深い洞察力と豊かな創造力で、宇宙と人間が調和し発展する新しい時代へと、人類を導いてくださっています。
 宝塔品の最後にはこうあります。
 「恐ろしい世にあっても、一瞬でも法華経を説けば、その人は一切の天や人に尊崇されるだろう」
  <「恐畏(くい)の世に於いて 能く須臾(しゆゆ)も説かんは 一切の天人 皆応に供養すべし」(法華経419頁)>
 あなたの声は、心の底に秘し沈められていた考えや、見失わていた価値を蘇らせています。
 あなたの未来への展望と詩心から、生命の基となる自然の糧(かて)を得て、人類の願望を表現する新たな言葉が生まれ出てきま す。苦悩の深みから崇高な精神の蓮華は開花するのです。
      「人間」は「宇宙」と一体との生命観
チャンドラ 人間と人間の争い、人間と環境の摩擦から発生する苦難と危機を回避するには、対立をあおる二元論的思考を放棄しなければなりません。
 人間は、単に生きているだけの存在ではありません。
 他者への行為の結果をその身に受け、他者への行為の方法に価値を与えていくのです。
 人間の深い意識は、「超越的意識」と一体であり、人間が選択したことの責任を、その超越的意識と一体の意識が負うのです。
 原子、細胞、身体、個人、社会、惑星、星雲――これらは、それぞれが「全体」でありつつも、相互依存のシステムを形成し、かつさらに大きな「全体」の一部をなしています。
 このように、万物が、多様性と統一性を同時に満たす相互依存の関係にあるという考え方は、古代ギリシャ、あるいはヨーロッパのような、「善と悪」「真と偽」「神と人間」という二元論的思考からは出てこないものです・
池田 一個の人間の生命が大宇宙と一体の広がりをもつという生命観は、まさに、インドが生んだウパニシャッド哲学や釈尊の教えに結実しております。
 博士の言われた生命観は、生命を表層意識から宇宙と一体の深層意識まで究明した、仏教の「九識論(くしきろん)」を想起させます。他者への行いを「業(ごう)」として刻み、生死(しょうじ)を超えて記憶しゆく第八識の「阿頼耶識(あらやしき)」。さらに、八識をも包みゆく第九識である「根本浄識」においては、生命は個別性から解き放たれ、宇宙生命と一体となっているとする生命観です。
 そして、宇宙生命と融合した個の生命は「一念三千」の当体として、宇宙大の慈悲と知恵と勇気を内包することになるのです。
 この「一念三千」の壮大な生命観こそ、東洋思想の精華であり、西洋がルネサンス、宗教改革を経て育んできた「個人主義的ヒューマニズム」に対して、「宇宙的ヒューマニズム」とも呼べるものです。
チャンドラ 「全体」――すなわち「人類」「地球」という新しい意識は、各国が、国家間の良好な相互依存関係を、自国の利益よりも優先するという自覚に目覚めた時、はじめて可能になります。
 人間は、部分的意識から全体性の意識へと転換していくべきです。
 たえず変化する世界のなかでは、新しい価値観や主張が出てくるものですが、それらは、人間を隔てるものであってはならないでしょう。「全体性」への意識を呼び覚ますものであるべきです。
 私たちは皆、宇宙という「全体」のなかの「人類」という一団に結びついている存在です。そして、「現在と未来」「個体と複合体」「宇宙の律動とその生成の流れ」という、脈動するシステムの中で生きているのです。
 「個」という限定された枠から脱却し、多くのものを統合し、万人を潤していく価値を追求すべきです。
 別の言い方をすれば、「自己」の再定義が必要であるということです。「『私』とは『全人類』であり、『あらゆる生命』であり、『全宇宙』である」というように。
池田 まったく同感です。
 物質的価値による征服と従属ではなく、現象として立ち現れる民族、宗教、文化の差異を認めながらも、同時に、「人類は一つ」「地球は一つ」と示していくような哲学を共有していくことです。それこそが、真の意味での「グローバル化」です。
 私は、そのような二十一世紀の哲学の創造に、最も貢献できるのが仏教であると確信しています。
 比較神話学者のジョーゼフ・キャンベル博士の言葉を紹介したいと思います。
 「世界が変わると、宗教も変わらざるをえないのです」
 「現代は境界線がありません。今日価値を持つ唯一の神話は地球というこの惑星の神話ですが、私たちはまだそういう神話を持っていない。私の知るかぎり、全地球的神話にいちばん近いのは仏教でして。これは、万物には仏性があると見ています。重要な唯一の問題はそれを認識することです」(『神話の力』飛田茂雄訳、早川書房) と。
チャンドラ 同感です。人類が「全体性」という意識に立てば、「力と資源をできるだけ節約して、必要なことを行おう」ということにもつながります。そうではなく、「より多くの利益を得よう」という考え方が、現在の環境危機をもたらしています。
池田 これまでも話し合ったように、環境問題も、核と同様に、人類の「精神革命」なくして乗り越えられない問題です。
チャンドラ 自然を人間に敵対するものとみなす物質文明は、自然に対して、科学技術と工業力による戦いをしかけております。
 それに対して仏教は、あらゆる生命の「平等」と「無常」を強調します。あらゆる生命形態への転生という思想は、一切の現象が互いに相互依存していることを、強く主張するものです。
 物質文明は、今、文化的優位を誇っていますが、自然と対立しない生き方のなかにある「調和」と「智慧」に目覚めるべきです。
 人工的につくりあげた虚像の幸福が、自然界の秩序にとってかわることができると考えるのは、全地球的な幻想であると思います。実際、少し古いデーターではありますが、1991年8月21日付の『デイリー・テレグラフ』が、イギリスの世論調査を発表しました。それによれば、42パーセントの回答者が、「汚染のない世界が実現し、自然と調和した生き方ができるのであれば、科学技術がもたらす恩恵を放棄してもよい」と答えています。
 シンプル・ライフ(素朴な生活)という価値観は、消費第一主義に替わるものです。私たちは、私たちの本来あるべき姿との接点を見いだす必要があるのです。(これで長文の『東洋の哲学を語る』からの引用は終了します)

 チャンドラ博士は、「社会的責任」について述べられております。
 「日蓮仏法は、個人の救済のみならず、社会の変革を説いています。人々が住む国土に仏界を顕現することを目指しています」
 池田先生は、それこそ「立正安国」です。「世界平和」です。立正安国は、一念三千の法門の国土・社会的次元での実現といえるでしょう。人々の幸福を実現するために、皆が住む社会を変革していく――と。
 チャンドラ博士は、「日蓮大聖人の精神と魂を生き生きと継承される池田先生は、大聖人の火のような情熱と、文明を変革しようとする意志を蘇らせています」と。称えています。
 最後に、皆様に、この「東洋の哲学を語る」の書籍を手に取り、お読みになられる事をお進めいたします。
 もうすでに読んでおられる方は、書棚から取り出して、再度、お読みになられることを、願っています。